結局お酒が残ったままの頭じゃ一限からなんてそうそう無理な話で、遅刻するぐらいならフけてしまおうという自堕落な考えにのっかって、私は二限から学校へ行く事にする。雄二よりも睡眠をとった自分にほんの少しのかわいらしい罪悪感を携えて。
 時間がずれるだけで電車の密度は全然違った。座席に空きすら見える程の人の少なさに思わず呆けてしまい、気づけば口を開けて寝ていた。まるで何でもありませんみたいなふりして居ずまいを正し、内心の羞恥を気取られないように外を見た。見慣れた風景が適当な速さで通り過ぎていく。緩やかな陽気が穏やかだった。ふっと電車のスピードが緩み、私はリュックを背負いなおして立ち上がった。
 駅から日差しを浴びつつだらだらと学校へと向かうその途中、コンビニでチョコレートを買って携帯を見たら、昨日の彼から粗相に対する謝罪のメールが入っていた。彼は酷い二日酔いで学校をさぼるらしい。彼に比べてみれば一限はサボったものの、ちゃんと学校へ行っている自分はとても偉いんじゃないかと思って、何となく優越感を感じた。けれど本当は五十歩百歩だ。一限目に欠席がついたのはお互い変わらないし。
 チョコレートを味わっていると、漸く学校が見えてきた。門をくぐればどでかい本館が目の前にある。そこを迂回して私の学館へ向かう。正門から一番離れた場所に、私達の学舎はあった。今は授業中の為か、歩いている人は少ない。その中でも私は最も人が通らなさそうな場所を通ることにし、ぺたぺたと歩いて行った。この裏道は一人の時に良く使う。何となく居心地の良い場所だった。
「ざーんこーくーな」
 昨日、彼女が歌っていた曲が頭から離れない。鼻歌混じりに呟きながら校舎へ向かっていく。本館の裏側、あまり大学も手入れをしない放置している、通り道以外何者にもならない人通りの少ない場所は喧騒から離れていた。建物の向こうでは同じ学生達がキャンパスライフを謳歌しているのだろう、時折キャアという明るい声が聞こえたり、男の子達のがははと笑う声が聞こえたりする。けれどまるで境界線のようにそびえ立つどっかの学部の校舎のおかげで、私からしたら全て他人事だった。
 いつもそう思っていた。私だって人並にキャアと声をあげてがははと笑うけれど、この裏道だったり、華々しいキャンパスライフから一歩距離を置くと何もかもが自分に無関係に思えた。冷めている訳ではない。混じれば私もキャアとがははと笑うのだ。けれど離れてる今は、一人カラオケで気持ちは十分に昂揚出来る。
「まーどーべーかーっら」
「機嫌、いいね」
「ふわっ!?」
 調子にのりだした頃に、後ろから声がかかった。油断しきっていた頭に上から美しい声が、そして私からはおかしな声が。軽くパニクりつつも確信を持ちながらもゆっくり後ろへ振り返ると、やっぱり雄二だった。相も変わらずゆるい微笑と、色っぽい唇に見慣れない煙草。遠くでマジでぇと笑う声が聞こえた。その黄色い声を背景に、彼はゆるりと煙草の煙を吐き出した。
「一限さぼって、良い身分だこと」
「ゆー、じ」
「まぁ俺もさぼったんだけどね」
「どして」
「ん?」
 どうして此処に居るのどうしてそんなキャメルくわえちゃってるのとか、全ての意味を込めた私のどしてに雄二はかすかに首をかしげた。紫煙が。くゆる。ふわりと青空に薄い雲をはるような、そんな紫煙が舞い上がる。煙草の先は赤く燃えている。
 初めて見る光景だった。出会って一ヶ月近くたつのに、私は雄二が煙草を吸っているだなんてカケラも知らなかった。少なくとも私の目の前で吸っていたり、このキャメルの匂いをまとわせていたりする事はなかった。けれど雄二は昨日一昨日吸い始めた訳でもなさそうな、慣れた素振りで煙草を弄っている。見とれてしまう程に様になっている。
 雄二は私のどしての意味もさして気にせずに、煙草を指に挟んで口から煙を吐き出した。私からそらして吐くところに、いつもの雄二とは違う何かを感じて少し嫌だった。その何かは分からないけれど、具体的にどうとは説明も出来ないのだけど、けれどかすかな違和感。何て言いつつも、私を見る雄二の眼はうつくしい。鳥肌が立つ程に。だから私はどしての意味を説明することも出来なくなってしまう。
「俺もちょっと昨日は飲みすぎたのかも」
 ふふふと笑って多分私のどしてへの答えを言う。たんたんと煙草を叩けば、先っぽの灰が地面に落ちた。ふわりと舞い上がって広がって好き勝手に落ちる。そういうのがあまり好きでないのに、何も言う気にならなかった、いや言えなかった。まだ自分のペースをつかみきれない脳みそが、高速回転で雄二への言葉のリアクションを探すのだけど、それでもやっぱりパンクしそうで。ぎゅっとリュックの肩紐を握りしめた。すると促すみたいに雄二は首をかしげた。しどろもどろになりながら、私は無理矢理に言葉を吐き出す。
「あ、ああ朝起きれなかったの?」
「うん、少しね」
「私も起きれなくって、体、だるくって、それで」
「うん、俺もだるかったよ」
「…そう」
「そうだよ」
「そっか」
「二限、受けるの?」
「受ける、つもりで来たよ」
「そう。俺は分かんない」
「じゃあ、何で学校居るの?」
「ん?」
 雄二が笑えば時が止まるかと思う。いつもの微笑ではない、にっこりという言葉が似合いそうな笑顔。少なくとも私の心臓は一瞬止まる。酷く心が痛む。幸せと衝撃がいっしょくたで、ただ胸が痛い。
 誰にも理解されなくてもいい。皆からはぁ? って思われたっていい。私にしか見えないままでいい。
 ただ雄二をうつくしいと思う。この世の全ての華を集めても雄二には敵わないだなんて、酷い言葉まで言えちゃうぐらいに。
「葉子が居るかなぁって」
 言葉を失う。しわしわになっちゃうんじゃないかなってぐらいリュックの肩紐を握りしめて、私は呼吸さえ失った。
 雄二は平素と変わらずアルカイックスマイルを浮かべると、顎をしゃくった。
「始まっちゃうよ」
「え、あっ!?」
「二限。後十分」
「ほんと?」
「嘘ではないね」
「あ、あの、疑ったとかじゃなくて」
「うん」
 穏やかにたおやか。高くなってきた日差しとあいまって彫の深さが目立って、いつも以上に雄二は優雅だった。くらくら、する。どんどん酷くなる。彼を絶対化していく自分。けれど見れば見る程に思うんだ。知れば知る程に分からなくなるんだ。醜いところや嫌いなところ、それを見つけれなくて、初めて見た時と変わらないうつくしさを携えているから、私は彼を理解できない。けれど彼は私の理解なんかが及ぶ対象でも無いのかもしれない。
 彼はキャアという声やがははという笑い声とは違う。だから私はこういう通り道が好きだ。雄二のようだから。少しでも彼を理解したいと思うから通るわけじゃない。少しでも彼と一緒したいから、こんな場所を通るんだ。
 なのに何故だろう。現実世界で私が彼と一緒になれば私は途端に何もかもがおぼつかなくなる。焦がれていた状況になったというのに、喜悦よりもただ咽が痛い程の緊張を味わってしまう。キャパを超えて、ただいっぱいいっぱいになる。
 慣れ親しんでいるのであろうキャメルを人差し指と中指の間にはさみながら、雄二は隣に歩くことを促す。それにぎくしゃくと従えば、私のたどたどしい歩行に緩やかな長い脚をゆっくりと合わせてくれた。そのままその道を抜けると、いつも通りの景色に出た。
「次、何階なの?」
「ご、五階」
「また微妙な階」
「雄二、結局どうするの?」
「どうしようかな」
 ちらりと腕時計を見て、後五分かと呟く、その唇の動きが妙に心をさざめかした。
「受けよっかな。どうせ暇だし」
「そ、っか」
「エレベーターは…いっぱいだな。俺、二階だから階段で行くけど」
「じゃあ、あたしも」
 同意すればゆるりと微笑む。そのまま階段で上がれば、たった一つの踊り場を通りぬけただけで雄二とはお別れになった。私は時計を見て顔をひきつらせながら、酷く急いた足取りで階段を駆け上がった。結局一分前に入室出来て、汗だくで肩を激しく上下したまま、昨日と同じ彼女の横に座り込む。
「おー、ちゃんと来たし。偉いじゃん」
「お、おぉ」
「汗かきすぎじゃね?」
「階段、す、っご、走った」
「息上がりすぎー、だっせえ」
 けらけらと指をさされて笑われるのにかまってられないほど息がしんどかった。こんなにも醜い。にやにやと笑いながら差し出されたタオルに一応のお礼だけ言って、顔をうずめた。化粧はどうせグロい事になっているんだろうけど、そんな事を考えていられなかった。どうせ頭だってラリってるんだ。外見がそれに伴って大変結構じゃないか。
 ぎゅうとタオルを握る。雄二はきっと微笑んでいる。ああと思わず声が出て、指をさしてきしょいと言われた。けれど私は、体が震えるのが止まらなくて、もう一度、今度は聞こえないように口だけ開いてああと咽の奥でひきつらせた。酷く咽が乾いている。呼吸がままならないぐらいに。ただ、痛い。


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