「じゃあ、カラオケに行こう」
 飛びそうな意識を手放すのはとても甘美な事だけど、さすがにそうも出来ない根は真面目っ子な私がやっとの思いで板書をうつしきれた時にそう声がかかった。その声の主へと振り向く。
「じゃあ、て」
「うんまぁとりあえず」
「接続詞の使用法についてちょっと語ろうか」
「そんな時間も惜しいぐらい、俺はカラオケに行きたいのだよ」
 いつもの馴染みの男子が私の肩に手を置きながら真剣な眼差しで言う。煩わしさを装ってその手を退け、とりあえず私は勉強道具の片づけを始める。その間にも彼はいかにカラオケに枯渇しているのかを熱心に語っていたが、私はあまりちゃんと聞いていなかった。
 だらだらと片づけをしている間に話はカラオケに行くという方向で落ち着いたようで、私は惰性のままついていく事にした。メンバーはさっきの彼女と、そして目の前の男友達と、それと。
「…あれ?」
「ん? どした葉子」
「雄二は?」
 そう、このメンバーならばいつもは雄二を加えているはずだった。けれどあの彼の姿は見当たらない。
「あいつは既に教室出たよ」
「まじで」
「トイレだって」
「…え?」
「え?」
「えぇ?」
「いや、何が」
「トイレ? 誰が」
「雄二が」
「えぇ」
「何なのお前」
「いや別に」
 ゆうじがといれ、と口の中で転がすと再び何なのお前と言われるが、二回目は無視した。
 ゆうじがといれ。
「えっ」
「いやだからさぁ」
「ごめん私が何なのかは分からない」
「…あっそ」
 えっ雄二って排泄物出すのと言いそうになって寸前でこらえた。さすがにそれを口にしたらはぁ? ってなるし無駄な邪推もされるだろうし色々めんどくさいであろうなって事は分かったのだ。ただ、でも、にわかにはちょっと信じられなくて。
 分かっているつもりだ。彼は人間で、ただの男の子だって。ただ、それと信じている出来事っていうのは別、っていうか。ただ想像もつかない。アルカイックスマイルの彼から出てくる何かを。
 ああ馬鹿だなぁと思う。私は一体彼の何を信じているのだろう。彼は生きているのに。そうだ、彼だって生きている、のに。
「お待たせ」
「大層待ったぞ」
「わりー」
 それなのに緩やかに登場した彼は、やっぱり何一つ乱れていないんだ。涙腺がぐらりとした私を、雄二は目線でゆっくりとらえて、微笑んだ。私は笑おうと思ったのだけど、やっぱり顔の筋肉が上手い事行かなくて、いびつな無表情をたたき出しただけだった。

 カラオケで雄二は流行りの曲を数曲ほど歌った後、疲れたなどと言ってあまり歌わなかった。私は妙な緊張のまま、けれどいつも通り好き勝手に手を出した。かの有名なアニソンで「あ・い・し・て・るゥー」と叫んでけらけらと笑っていた。いちまんねんとにせんねんまえからあいしてる。私はそんな途方もない時間を知らない。このアニメも知らない。何も分からないけれど私は歌詞に沿って友達へ「愛してる」と言える。いつもエベレーターと言う彼女はしょーおねーんーよしんわになーれっととてつもなくかわいらしく歌う。雄二は笑う。だから私は悲しい。優雅に組んだ足が美しいから。笑っているのに彼はけたけたしていないから。私は簡単に「愛してる」と言えてしまうし、彼女は知らない少年に神話になれだなんて無茶ぶりだってかませてしまうけど、雄二は何一つ変わらずに美しいから。接続語の使用法を間違えた彼はロックバンドのデスヴォイスを華麗に歌ってのけた。スウィング・サマー・スピーカCHU・メガラバ。羅列に意味は無い。何もかも悲しい。楽しいけれど私は悲しい。
 結局居酒屋にもつれこんでしこたま酔っぱらった私達は吐いた彼を介抱して解散した。居酒屋の喧騒に紛れない雄二は、彼を肩に担いで最後まで面倒みるよと笑った。そして送れなくて悪いなと謝った。私は彼女と二人でいいよと笑い、電車の揺れに酔って帰った。窓の向こうでは夜のネオンが通り過ぎて行くから、奥にそびえる山が見えない。
 明日も一限からだ。雄二はまたあの電車に乗るだろうか。私は眠い。だから乗れない気がする。けれど乗らなければ。朝から雄二に会えるのだから。