機会原因論 01

 何年経とうが慣れる気がしない。近すぎるおっさんの首筋だとか、後ろでもぞもぞしやがる男子中学生の鞄だとか、申し訳ないぐらい押してしまっている右隣の女の人の胸だとか、とりあえず左隣で本読んでる学生邪魔過ぎるから死ね。
 パーソナルスペースに中指を立てるような、熱気と人間臭が立ち込めるこの空間がこれから四年間続くのだとしたら、だとしたらうんざりする。いつかは私も周りの人間のように慣れてしまうのだろうか。つぶされながら友達と笑ったまんま会話が出来るのだろうか。
 今は、思い切り顔をしかめて吐き気をこらえているだけだけど。
『間もなくー、……、……でございます』
 乗り換える駅の名前がアナウンスで流れて、電車は速度を緩める。体感以外何も情報が無い。四方八方人間で外が見えない。暫くした後、大仰に車体が揺れて、お尻に男子中学生の鞄が刺さった。
 ドアガヒラキマスゴチュウイクダサイの言葉の後、どっと周りが揺れて、電車は人波を吐き出していく。私も吐瀉物の一部と化し、ぞわりとした流れに沿ってホームへとパンプスをおろした。吐瀉物は後ろからまだまだ溢れてきていて、止まる事を許されないその雰囲気にうんざりしながら波からはずれる。ごぼごぼと吐き出される人波は電車の体積を超えているのではないかと思わせた。それを見て更に気分が悪くなる。
 早朝の爽やかな空気が電車から漏れる空気でまた淀むけど、それでも深呼吸をしたくなった。思い切り息を吸った瞬間、は、と吐息の音がして、隣を見ればその息を出した主と目が合った。
「あ」
「あぁ」
 ガイジンかと思う程彫の深い顔立ち。色っぽく垂れたくっきり二重の眼、ぽってりと厚い唇、しゅるりととがった鼻、それ等のパーツは私の頭上。
「…っはよ」
「おはよ」
 緩く癖のある短い黒髪をふわりと揺らし、雄二(ゆうじ)はほほ笑んだ。高校で習った、仏像のアルカイックスマイルを思い出させる、そんな微笑。そんな微笑に対し、此処に雄二が居るという不測の事態に対応しきれなかった私は表情を作ることが出来なかった。笑わなければ微笑まなければとも思うのだけど、緊張で顔の筋肉は言うことを聞かない。結局、私はそのアルカイックスマイルを無表情で見つめる事になり、心の中でごめんなさいと謝った。
 私の心の葛藤など微塵も知らない雄二は、私の表情なんて気にしていない様に顎をしゃくって歩くよう促した。私は何とかそれには微笑んで一緒に歩き出す。それでも心はまだ驚いていて、ぎこちなさが溢れ出ていて、何だかとっても馬鹿みたいだ。
「雄二、乗ってたんだ」
 気まずさから逃げる様に、何とかそう絞り出すと雄二はまたアルカイックスマイルを浮かべたまま私に歩調を合わせてくれる。その優しさが優美で眩暈する。
「これが授業に間に合うぎりぎりだからさ」
「そだね、もうこれ以降だと間に合わんよね」
 まだ上滑りな声に我ながら腹立つ。早く自分のペースを思い出したいのに、何故か圧倒されて何も掴めない。沈黙が恐ろしくて、私はべらべらといつもとは違うテンションのまま話続けた。
「もーあたし疲れちゃって朝からしんどいみたいな超やばいみたいな。えげつないよね、人の数とかもうどんだけ居んのって感じ質量超えてんだろみたいな」
「通勤ラッシュはやばいよな、人の数が」
「……うん」
「葉子は」
「はい」
「いつもこれに乗ってんの?」
「うん」
「そう」
「うん」
「俺もだよ」
 私の衣服は少しくたびれている。ラッシュの満員電車にもみくちゃにされてぐちゃぐちゃだ。顔だってもうくたくたで、朝からお疲れ様って感じだ。
 なのに雄二は衣服一つ乱れていないし、汗で湿った私とは違ってさっぱりとしている。皺一つ見えないデニムのパンツと黒地にグレイでボーダーの入ったシャツ。サスペンダーが凄くお洒落。そのお洒落さが微塵も崩れないまま、雄二は電車がやばいと言った。雄二の声の美しさに、そしてそのやばいという言葉に、何故か私は泣きそうだ。やばいなんて状況も心境も何一つ知らなさそうな美しい声でやばいなんて言うから。
 雄二が人混みに潰されているところを想像してみた。
 上手くいかなかった。

 学校は駅から少し歩いたところにある。あの後路線を変えて乗り込んだ電車は比較的すいていて、最低限のパーソナルスペースは確保出来る程だった。電車の揺れに身を任せてすぐにたたらを踏む私と違って、雄二はゆらりと身体が動くだけだった。立つ姿は美しく、ぽつりぽつりと落とす言葉は綺麗だった。たまにぼんやりと横顔に見とれてしまい、言葉が遅れる事があった。その度に雄二は全てを許すようなアルカイックスマイルを浮かべた。そしてその度に私の心臓は鼓動を忘れた。
 愛だの恋だのは良く分からない。けれど私は雄二をうつくしいと思う。


 昼休み、再び混雑に紛れながら食堂で親子丼を食べていた。親子丼ってよくよく考えると酷いグロテスクだだって母(父かもしれないが)と子供を一緒に調理してしまって食べるんだもの酷い残酷なんて思っていると、とろりと生の白身が箸の間から落ちた。黄色いふわふわの卵に落ちてまた滑る。
「次教室どこだっけ」
 定食についていたキャベツを頬張りながら同じ学部の友達が言う。私はもう一度白身を掬いながら、仰ぐようにして記憶を探る。
「七〇…八」
「え? 七階?」
「確か」
「だるいわー…」
「まじそれ」
「エベレーターって人いっぱいだしね、ありえん」
「エレベーターね」
「あぁ、いつも間違えちゃう」
「知ってるよ。あー、じゃあ階段で行こか」
「息上がるっつの」
「うんまぁそうだけど、でもしゃーない」
「しゃーない、ね」
 人の多さに反比例してうちのエレベーターは小さい。講義前には通学を思わせるほどの混みっぷりを見せる。
 教室入った時肩で息してんのが嫌なんだと主食のハンバーグを解体しながら目の前の彼女は言った。だってむっちゃ恥ずかしいと多少関西のイントネーションを思わせる口調でそう続けた。
 次の七〇八は大講義室だったと思う。学科のほぼ全員が受講する授業だった。
 雄二は。
 階段で上がるのだろうか。息を乱して、肩を上下させて。それともエレベーターで来るだろうか。狭い部屋に押し込まれて、満員電車のように人と密接して。
 朝と同じように、やっぱり、どの姿も想像も上手く出来なかった。
 きっと、教室のドアがあいた時、彼は今朝と変わらずグレイのボーダーを歪ませること無く颯爽と教室に入ってくるのだろう。穏やかな笑みを張り付けたまま。
 さてこの吐き気は、親子丼のグロテスクさを想ったからだろうか。それとも。