スーツなんて入学式以来だ。実家から取り寄せるのでは間に合わなくて、慌ててバイト先の先輩に借りた。優しくてイケメンの先輩のそれは、足が短い俺には不格好にでかい。
 何度結びなおしてもネクタイは歪つだった。鏡の前であーでもないこーでもないと自分の不器用さを恨みつつ、何度も挑戦していると、机に置いていた携帯がヴーと激しくヴァイブを鳴らした。サブディスプレイに赤く文字が流れる。名前を確認した後、手に取った。
「もしもし」
『準備できたか?』
「一応」
『後十五分したら行くからな』
「待って、何かネクタイ変なんだけど」
『知らんわ』
 間髪入れずに見捨てられ、電話が切れた。時計を見る。後十五分。地味な時間だ。何をしようか、とりあえずネクタイをもう一度結びなおそうか。暫く格闘した後、漸く妥協点を見つける。時計を見れば長針が一つ数を刻んでいた程度で、残り十分、と小さく口の中で呟く。もう一度鞄の準備をしよう。最終調整のために鏡で全身を見た。やはり人様のスーツは似合わなくて、何だかそわそわする。右手の人差し指と親指で、見慣れない真っ黒のネクタイをつまんだ。
 電話からきっかり十五分後に彼は現れた。同様に真っ黒のスーツと真っ黒のネクタイ、そして黒い鞄だった。
「行こか」
「車、だよな」
「当たり前やろ。こっから兵庫までなんか遠てチャリではよー行かんわ」
「ですよねー俺こっからあっちまでどれぐらいあんのか知らないけど」
「お前の実家から東京までやな」
「あ、わかりやす」
「行けるんやったら行ってみ」
「無理です」
 息をついて笑えば彼は少し口角をあげた。笑ったのだろう、でもどこか冴えないのは、お互い様だった。
 彼の車の助手席に乗り込む。シートベルトがスーツに皺をつくりそうで少し気になった。
「数珠は?」
「持っとる」
 返事と同時にエンジンをいれる。少し車体が揺れた後、静かに発進した。ゆらりと動いた景色を眺める。いつも通りの減らず口をたたく気分ではなかった。

 彼女の実家だという場所の片隅は、話に聞いていた通り田んぼと人々が適度に混じり合う住みやすそうな場所だった。都会よりの田舎、と良く笑って話していた、その通りだった。
 ナビですら苦戦しながら辿り着いたホテルのパーキングには、既に何台か見知った車があった。
「あいつ等早ないか?」
「授業さぼったんじゃねぇの」
「は、ありえる」
 苦笑いしながら車のカギを指で回し、エントランスをくぐった。受付の前のソファで、今話題に出た人物が煙草を吸っていた。俺たちを見つけると煙草の煙をまきちらしながら立ち上がった。
「よぉ。遅いねん」
「お前が早いねん。授業は?」
「んなもん出てられへんわ」
 へらへらと笑う彼の笑顔はいつも通りではない。やはりどこか冴えなくて、困っているようにも見えた。その気持ちは痛い程分かって、多分少なくとも此処にいる三人は同じ気持ちだ。ぐい、と煙草をくわえた顎でさされた方には同じく黒い服を着た何人かの男女が集まっていた。
「他の奴らももう来てんで。女子はもう始まってるわ」
「始まっとるて、何が」
「何や泣きだしてる」
「ええ」
 俺達はまだ何もつかめていないというのに、もう実感して、消化しているのだろうか。それに驚いて思わず微妙な顔をしてしまえば、横の奴も同じ表情だった。そんな俺達に煙草が似合う一つ年上の同期は肩をすくめて見せた。
「俺はまだ無理やな。顔見てへんからかもしらんけど、実感が湧かん」
 ソファに座りながらぼそりと彼は呟く。だから離れてんねん、と言うとまたへらへらと笑った。喋るたびに揺れる煙が上がっては、溶けた。
「…せやな」
 絞り出すようにもう一人が呟いたのを聞いて、俺は少しだけ目を閉じた。

 指定された部屋へ行くと即座にネクタイを緩めた。後一時間ぐらい時間があるので二人はわりとシビアに早々に部屋に引き揚げていった。それに俺もならった訳だが、独りになるとどうも手持無沙汰だ。考えても考えてもまるで実感がわかない、現実味を帯びない。彼が言うように顔でも見たら実感が湧くのだろうか。でも、俺は顔を見ても信じる事が出来ない気がしている。
 窓の外を見るともう暗くなっていた。田んぼがある良い場所だと言っていた。こんなキャンパスじゃ空気が汚過ぎて私は息がつまるとも笑っていた。確かにそうだろう、大学とは違う穏やかな空気が流れる此処は彼女にぴったりだ。俺の地元も結構田舎だぜと言えば彼女はしれっとした顔で私の場所は都会寄りの田舎やでね一緒にせんとってくれると言った。まぁでも、いつかそっちがどんだけ田舎か見に行ったってもえーよといたずらっぽく言う。馬鹿野郎、ふざけんなちょーしのんなとゴミを投げつければ、酷いなぁ連れてってーなところころと笑う。
 つい最近の話だ。ほんの一週間以内。
「連れてって、やれねーじゃん」
 声にすれば何とも陳腐な思い出だった。
 今、ここに居ないお前を嘆く。けれどどうもうまくいかなくて、でも何故か疲れた頭が酷く睡眠を求めた。

 浅い睡眠のおかげではっきりしない頭のままエントランスへ戻ると、もう全員集まっていた。皆どこか疲れていて、ぼんやりとしていた。泣いたと聞いた女子だけが白々しい辛辣な表情を浮かべている。
「はよ」
「っす」
 短い挨拶をかわして、寝癖のままの髪をそれとなく直す。先ほどと同じく煙草をふかしながら、また彼が顎でしゃくって促した。しずしずと全員それについていく。俺は後ろの方でゆっくりと一歩踏み出した。
「御手洗」
「ん?」
 呼びとめられて振り向くと、女子の一人が少し涙目で立っていた。
「ネクタイ、ゆがんでる」
「おー、そうなんだよ、上手く行かなくて」
「だらしないなぁ」
 器用な手つきで俺のネクタイをほどくと、その子は細い指で結びなおそうとしてくれる。俺の顎ほどのところで、栗色の髪の毛がふわふわと揺れている。
「御手洗、ほんまにこうゆうの苦手やんね」
「不器用なんでね」
「ほんま、しっかりしーよ」
 ふふ、と少し高く笑うこいつが女子の間ではすごい毒舌なのを知っている。彼女が言っていた。ねぇあの子絶対御手洗の事好きやで、と少し拗ねた様に笑って言っていた。何でと内心焦って聞くとだって御手洗と話しとう時のあの子、むちゃくちゃかわいいやないのとやっぱり拗ねたように微笑む。普段との差は分からない。けれど確かに彼女と二人で話すこの子はもう少しさばさばしていたと、思う。ぶりっこ? と聞けばそんなんちゃうただのオンナノコ、と彼女は頭を揺らして笑っていた。目の前にはふわふわと揺れる栗色のボブ。思い出の彼女は黒い真っ直ぐのショート。
「おっけ、出来た」
「あざっす」
「いいえェ」
「悪ィな」
「かまへんよ」
 ふふ、と少し高く笑う。何だかそこに違う色を見つけてしまいそうで、俺もちょっとだけ笑ってすぐに視線を外した。何となく、列の最後尾、少し遅れて二人で並んで歩いた。微妙な空気に落ち着かなくて、ポケットの中の数珠やスーツのすそなどをいじっていると、うつむき加減に横でぽそりと呟いた。
「薙景、さ」
 彼女の名前を聞いただけで心臓が跳ねあがって胸がはじけ飛ぶかと思った。何故か禁句だと思っていたその名前を軽々しく口にするこの子を直視してしまった。けして悪い事をした訳でもないのに、何故か彼女を口汚く責めたいような気持ちになる。俺のそんな動揺にも気付かず、この子は何と目に涙までためて話しだした。
「何でうち等にゆうてくれんかったんかな」
「…」
「酷いよなぁ」
 寂しいようちは、と小さく落とすと更にうつむいた。俺はどう言葉をかければいいか分からずあぁだとかうんだとかと口の中でもごもごさせて、しかしその全てが白々しくてまた目を閉じた。ちかげ、と呼んだこともない彼女の下の名前を口の中で転がす。ちかげ。綺麗な名前だ、そう、一度だって呼んだ事はないけれど。うっすら目をあけて隣を見た。この子はまだ白々しくうつむいていた。
 そう言えば、と思う。思い出す彼女は全部ただ笑っている。どのような種類、なんてのは関係なく、ただ、笑っている。

 式場につけば全員でずらずらと会場に入って行った。もう既に始まっていて、和尚さんの低い声が響いている。緊張してきた俺は汗ばんだ手を拭きたくてもぞもぞしていたのだが、借り物のスーツでそんな事をするわけにはいかなかった。
「あの、横におるの」
 俺を連れてきて疲れた彼が小さく耳打ちをしてきた。
「あいつのおかんかな」
「まじで」
「だって、」
「いや、うん、分かるよ」
 まじでなんて言いながら俺は絶対そうだと確信していた。はっきりとした二重、通った鼻筋、しゅるりと尖った顎。彼女に皺を刻めばこうなるだろうというような顔だった。ただ違うのは、あの鬱陶しすぎる明るさを持っていない事。でも、かたく結んだ唇には彼女の影をありありと見る事が出来た。
「無理もない、か」
 ぼそりと小さく、多分独り言をつぶやいて彼は列に並んだ。俺も同じように並ぶ。
 会場では隅々で小さなすすり泣きの声が聞こえる。それすらどこか非現実的で、俺はただぼんやりとしていた。後ろであの子はもう泣いていて、ハンカチを目元におさえていた。俺の目の前の彼は煙草を我慢して、静かに歩みを進めている。
 厳かな雰囲気と悲しさ、そこからまるで遮断されているようだ。世界と俺との間に薄いヴェールがあるような感覚。いや、されているのではなく、しているのかもしれない。俺はここにきたってどうしたってこうしたって受け入れる事が出来ないでいる。
「ああ」
 目の前で彼が吐息を漏らした。酷く震えているその声で俺はほんの少しだけヴェールがはがれるのを感じた。震えそうな肩を見つめて彼のお辞儀がすむのを待つ。隣の奴にせかされるように俺は進むと、目の前の箱をのぞいた。
 俺は吐息なんか出なかった。
「千原」
 横で静かに彼は名前を呼んだ。震えていた。顔を見ないと実感が湧かないと言った彼は吐息をもらした。せやなと賛同を示した彼は思わず名前を呼んだ。何も言わなかった俺は、どうあがいたって結局ヴェールをはぐ事は出来なかった。だって顔見たって寝てる様にしか見えねえんだもの。だってこれ何度か見た事のあるただの寝顔なんだもの。隣で奴は嗚咽をもらさないように泣きながら震える手で焼香を済ました。俺はというと、間抜け面のままアホみたいに線香をつかんでは燃やした。視界の隅で、彼女の母親がハンカチを目じりにおさえて泣き顔だけは見られまいと必死にうつむいていた。あの子は後ろで泣いている。煙草を我慢している彼はきっと更に後ろでやるせない顔をしているのだ。俺は。俺は。やっぱり、間抜け面。そんでお前は寝顔、ねぇどーいうことよ。

 千原薙景、同じサークルで良く笑う同期が一昨日、手首を切った。一週間ぐらい前に笑って一緒に飯をくったところだった。初めて二人で同じキャンパスで飯を食った。彼女は始終どれだけ友達の事好きかと笑いながら語るだけだった。

 重い空気のまま、サークルのメンバー全員ぞろぞろと会場を後にする。最後に出てきた彼は我慢している煙草を弄りながら俺達の顔を見渡した。
「これで通夜は終わり、と。後は各自ホテル戻ったらえーで」
「飯は?」
「好きにせーや」
 そっけなくそう言うと、彼は肩をすくめた。
「全員で行かんの?」
 まだ目に涙をいっぱい溜めたあの子が小首をかしげて問う。そこに何人かの女子が同意の声をそろえた。彼は少し余裕の無さそうな表情を見せるとゆるく首を横にふった。
「せやから、好きにせー、って。少なくとも俺はえぇわ」
「何でなん、一緒に行こうや」
「やからえーって。気分ちゃうねん」
「…そ」
 少しだけ荒れた口調に眉をひそめて女子は女子で集まった。何人かの男子もついていき、残ったのは俺と彼の二人だけだった。
「お前もえぇんか」
 煙草の煙と共にかけられた言葉に俺は少しだけ目を伏せて
「多分お前と同じ理由だと思うんだけど」
 と呟いてみた。
「…そうやな」
 何か言いたげに飲み込んで戻るかと彼は促した。

 ホテルに戻れば日はとっぷりとくれていて、時計を見ればもう二十二時だった。今日一晩泊った後、俺達は朝に家に戻り、大学生になる。いつも通りの授業を受ける。あの子が正してくれたネクタイを思い切りほどいて机に放り投げると、スーツがぐちゃぐちゃになるのも構わずにベッドに飛び込んだ。考える事を放棄した頭が疲労を訴えるが、目を瞑っても落ち着かないだけだった。時計を見る。五分しかたっていなかった。
 シャワーを浴びて寝てしまえばいい、分かっているのに、寝る事すらめんどくさいのだ。それに、何か他にしなければいけない気がしている。
 携帯を弄れば地元の奴からメールが来ていた。次はいつ地元に帰るのかという問いに答えようとして、やめた。千原に予定を聞こうとして、聞けないのを思い出していた。
 時計を見る、また五分しかたっていない。
 あいつは、千原は、寝ているようだった。そして俺は眠る事が出来ない。目を瞑れば真っ暗に押しつぶされそうになった。考えなければいけない筈なのに、考える事を拒否するみたいな頭。
 何度か遊んで終電を逃して、何人か俺の部屋に泊めた事がある。未成年のくせにしこたま酔っぱらったあいつはすっげーめんどくさかった。何回も舌っ足らずに好きだ好きだと女友達に抱きつくから、めんどくせーって笑われて、ひどーと化粧のとれかけた目を見開いて笑った。周りも笑いながらぐだぐだの体を床に投げたりして。千原は絶対俺のベッドに入った。俺は床で寝るのが大っきらいなのでいつも千原を脇にどかして隣に寝た。二人とも酒臭くて千原は眠たさがピークになって、周りが寝てる中、千原もうつぶせのまま規則正しい寝息を立て出す。オレンジライトだけがついた部屋でそれを見ながら今日も楽しかったなぁと思うのが好きだった。
 その時と同じ顔だった、今日、あそこにいたのは。だから、分からない。何が変わったのかなんて。
 まだヴェールはぬぐえない。このヴェールがある限り、呼吸がしづらくて困る。
 そう、困るんだ。
 鍛え上げた腹筋で起き上がると乱れたスーツそのままに、携帯と財布だけポケットに突っ込んで部屋を出た。そして目当ての部屋まで小走りに行くと戸を叩きながら名前を呼んだ。暫くして咥え煙草のまま、ぼさぼさの髪を整える事なく彼が出てきた。
「どないしてん」
「車、貸して」
「あ?」
「くるま」
「…」
 何か言いたげに顔をゆがめて、そして彼は言葉を飲んで煙を吐いた。ケツポケットまさぐってキーを取り出すと、急いている俺に渡す。そしてそのまま髪をぐしゃりと撫でられた。
「気ぃつけてな」
「おお」
 どこに行くのかも聞かず、ちょっとした大人の余裕を見せて俺に鍵を渡した。俺は握りしめてありがとうと口の中でもごもごと呟いて離れた。

 急いた足取りで会場へ向かうと、そこはひっそりと電気をつけたまま、がらんとしていた。通夜はならば今日は人が居るだろう。慌てて会場に入ると、細い肩が見えた。
「あの」
 声をかけると、千原の母親はゆるりと振り向いた。彼女が成長したらこうなるのだろうなと本当に思った。大人の美しさ、そして悲しみを知っている顔だった。
「ち、薙景さんと、あ、いや俺は、薙景さんと同じ大学のサークルのやつで」
 訝しまれる前に自己紹介を行うが、何故か焦って上手くいかない。しどろもどろになっているうちに、彼女そのままの女性は小さく声を出した。
「薙景の」
「はい」
「彼氏でしょうか」
「ええええ違います、違いますけども」
「違うん、ですか」
 ふふふ、と笑う姿はとても美しい。思わず見とれていると、穏やかに微笑んだ。
「でも、会いに来てくれたんでしょう。こんな時間に、あの子に」
「…はい」
「…いやですわ。年をとると、思い出や、くだない事を、話しそうに、なります」
「聞かせてください。聞きたいです」
「でも、今はそれやないんでしょう?」
「…」
「どうぞ、こっちです」
 こちらの無作法を責める訳でもなく、大人の余裕を見せて前に進む。それについていくと、さっき見た棺があった。
 その中に、あの子が居る。
「…ごめんなさい、あの…」
「はい、ごゆっくりどうぞ」
 何て美しい大人だと思った。きっと彼女なんか悲しみの真っただ中で、娘が自分で居なくなったのに、なのに、俺に笑う。
 その心に深く深く頭を下げると、微笑みながら部屋から出て行った。残ったのは、寝ているこいつと、千原と、俺だけだった。
 ついている小さな窓をあける。するとやはり彼女は眼を瞑って寝ていた。俺の部屋で見ていたのとなんら変わりなく。手を伸ばして触れようとして、ガラスにはばまれた。閉じた眼をなぞるように指をすべらせると、キュウとガラスが鳴いた。
 千原は良く笑う子だった。何を言っても楽しそうだったり悲しそうだったりして笑う。笑いの沸点も低くて、誰も笑わないような事で一人でコロコロ笑っていた。おしとやかからはかけ離れている大声で笑った。そこがお前残念だよな、と他の男子に言われていた事がある。それでも笑っていた。
 寝ていると、ただのオンナノコみたいだった。千原薙景。うざったいぐらい明るい。その明るさは、今は無い。
「おい」
 ガラス越しに覗きこみながら、寄り目にしてみた。視界がぼやける。それを戻しても、何も変わっていなかった。欲しかった笑顔はどこにもなかった。
「笑えよ」
 お前、俺がこれやっただけでいつも弾けるように笑うじゃん。だからほら、おい。
「笑えって」
 俺、お前の事、黙ってたらまだマシとか陰でむちゃくちゃゆってたけどさ。でもアホみたいにうるさいお前の方が、やっぱ良いって思ってんだよ。だからさぁ、ほら。
「笑え、って」
 でっけぇ口あけてるくせに全然下品じゃないお前の笑顔が一番可愛いって思ってた。だからやめてくれ、そんな風に目を閉じて澄ましたりしないでくれ。いつもみたいに笑えよ、ちょっとくすぐったそうに馬鹿みたいに口あけて、笑えよ。

 同じサークルの千原薙景が死んだ。自分で手首を切って死んだ。その手首には無数の赤い痕がついていて、携帯の未送信フォルダに一つ、宛先の無い「ごめんなさい」とだけ書かれたメールが残っていた。
 千原は俺を見る時、とてもとてもうれしそうな眼をしていた。

 彼女の母親に何か言う事も出来なくて、そんな俺を見て母親は涙を眼に溜めた。また話したいという旨だけを伝えて、急いで車を走らせる。何もかもが敏感だった。ヴェールがはがれたのを感じた。
 真っ白の頭でホテルに戻ると、入り口で車を貸してくれた彼が、煙草をふいていた。よろける脚でその目の前まで行くと、煙を吐きだす。
「ちゃんとケリつけれたん」
 静かに言う声は、この都会よりの田舎では響いてしまう。千原薙景は此処に居た。居たのに。
「俺、」
「おん」
「俺、さぁ」
 口に出すのは、怖い。けれど吐息と一緒に震えて吐き出せば、彼は煙草をくわえたまま目を細めた。
 長く長く、煙は静かに煙草から立ち上る。まるでさっき見た線香みたいで眩暈がする。女々しいと怒られてもいい、俺は両手で顔を覆った。ゆらりと空気が動いた気がした、彼は何も言わずに横に立ってくれている。千原薙景が居なくなって初めて、俺は獣のように嗚咽を漏らした。爆発する感情に殺されてしまいそうだ。
 たらればの話なんて尽きる事はないんだ。お前の左手首のいくつもある赤い筋に気づけばよかったか、もっとお前が俺を好きになっていれば良かったんだろうか。
 自分を責めるなんて楽になりたいからやってるだけだ。何も後悔しない。ただ悲しい、悲しい。






elegy.