例えば深夜寂しい時、何かが壊れた時、そんな決まりきった瞬間にしか出会えないような君なら要らない、いつだって絶対的な安定感で僕を支えてくれる女神でなきゃ嫌だ。
 ねえキスをしたい。抱きしめて触れ合いたい、更にわがままを言うなら君と手を繋ぎたい。細い指に手を絡めながら、君の薄い唇にかすめるようなキスをしたい。そうしてそのまま静かに寄り添っていたい、何も隔てる事無く、隙間なくぴったりと。
 雨が降れば濡れた君を温めてあげたいし君に温めて欲しい、晴れているのならば二人で木陰で寝よう。曇っているのならば淀んだ空気を笑おう、雪が降るなら暖かいストーブの前で毛布を被って。春には花を愛でて夏には海へ行こう、秋には何か美味しいものでも食べようじゃないか、そうして冬には静かに寝てしまおうよ。指を絡めたまんま離さないでさぁ。
 怒鳴り散らすような我儘を柔らかく笑って包んでくれる君じゃなきゃ嫌だ。気まぐれで与えないで。溢れる涙の名前を僕は知らない。君を想う気持ちが愛でなければいいとは思っているよ。だってほらこんなにも醜い。



オーマイ、ダリー。




 喧騒とアルコール、五月蠅いネオンと人間の匂い、様々な煌めきが絶えず淀んだまま僕を刺激する。人工的なアイラッシュ、塗りたくられたペルソナ、他人だけを考えている空洞のボディー。飢えと倦んだ生命を携えたまま、ただ諾々と生きているだけの生き物がひしめいている。
 美脚効果詐欺脚、スラッとしてキレイキレイ。俗いだけのヒールで闊歩する彼女等は皆一様に見える。造りこまれた美。それを査定するふりして何だって良い彼等。深夜の都会は若者で溢れている。そして同じぐらい、スーツ以外何も判別がつかなさそうなサラリーマンが居る。有象無象の戯れ、等しく人である。
 器用に、僕は全ての人を避ける。時折触れてしまう肩には半笑いを、けれど誰も僕を見なかった。ざわめく人はそこに居るのにまるで無いみたいだった。個人というものが恐ろしい程溶けている、此処に在るのは蠢く群衆だった。
 僕の足はただ一か所を求めている。在り来たりなバーの裏、名も無い路地裏。そうだダリー、君に会いに行く。
 喧嘩とアルコール、五月蠅いネオンと人間の匂い、様々な煌めきが絶えずこの街には溢れ返っている。けれど君が居るその場所にそれはまるで関係無い。
「ダリー」
 角を曲がってすぐに名前を呼ぶ。ネオンなんて知らないみたいな顔してその場所は在る。煌めくのはダリー、君がまきちらす煙だけだ。
 細い煙草の銘柄を僕は知らない。刺激的に輝くメーク、金色の髪に埋まる色とりどりのエクステ、下着が見えるかどうかのぎりぎりのスカート。ダリー、僕が再び名前を呼ぶ前に、彼女はまた紫煙を吐き出した。
 果たして此処に在るのは美だろうか。僕の背中には相変わらず群衆が在るのだけど、この路地裏には無い。ならばここに在るのは。
 ねえダリー。僕は愚かにもまた今晩、君に会いに来た。
「ダリー」
 一歩踏み出して路地裏へ深まると世界が変わった。明確に此処は異世界だ。ダリーはまだ僕を見ない。くゆる、くゆる、紫煙が。
 僕はダリーの本名を知らない。年齢も、出身地も、好きな歌手も趣味も特技も知らない、煙草ですら。知っているのは、この喧騒を具現化したような街の中で、ダリー、君だけが溶けずに在る。
「明日は雨かしら」
 君の声は少女と言うべきか女と言うべきか、迷う。ただ震えている。
「ダリー、」
「雨は嫌よ、髪が嫌いになる」
「ダリー、」
「傘がたくさんあって歩きにくいし、」
「ダリー、」
「濡れるわ」
「ダリー聞いてくれ」
 煙草を挟む君の腕をつかむ。衝撃でその火種は落ちた。ダリーの赤く塗られた唇は半開きのまま、人工的なアイラッシュに縁取られた闇を思わす瞳がぐるりと動き、僕をとらえた。縁取られたカラーコンタクト、黒目の大きさすら偽造して。顔はまだ、僕を見ない。
「あなたとはいつも会話にならない」
「ダリー、それでも構わない」
「私は構う」
「聞いて欲しいんだ」
「私はそうでもないの」
「ああダリー、最初に僕と会話を交わさなかったのは、君じゃないか!」
「古いお話を掘り返しなさる」
 やっとダリーは僕の方を振り返った。目を細めて僕の顔面に煙草を吹き付ける。苦い煙の匂いが僕をくらませる。けれどどこか甘い、バニラのような香りの煙草だった。
 ダリーに出会った当時を覚えてはいるが、それがいつだったかは分からない。ただ衝撃とでも言うべきような感情だけが狂いだしていた。
 そう、ただ酷く泣きたい日だった。それだけは覚えている。
 ダリーはそこら辺にいるキャバクラの女と何一つ変わらない容姿をしている。そのくせにダリーは溶けない。いつでも細い煙草をくわえながらあるのか分からない表情でそこに在る。僕はこの街には似つかわしくない容姿をしているくせに、すぐにここに溶ける。
「おかしな人よ」
「そうでもない」
「ねえ私を抱きたい?」
「良く分からないよ」
「男でしょう」
「その前に人間でありたい」
「ねえほんとおかしな人よ」
「いや、僕は群衆だ」
 ダリーの人口爪で縁取られた指が僕の頬に伸びた。つるりと触れた瞬間、僕の奥がはじけて真っ白になる。君の顔は近い。
 君の容姿はこの街と変わらない。喧騒とアルコール、五月蠅いネオンと人間の匂い、様々な煌めきを君は携えているが、けれど君はこの街に居ない。ねえダリー。君を彩る人工物を全て取っ払って、どこかに逃げようよ。このスカルプチュアもエクステンションもアイラッシュだって何だってとっちまおう。そしたら僕ら、もう少し心を通わせれる筈さ。ねえ。
 僕から見えるダリーの輪郭は嫌にはっきりしている。けれどダリーはそれを望んでいないのだろう。群衆になりたいのだろう。だから彩る。着飾る。けれどダリー、君にここは似つかわしくない。誰よりも君の姿は此処にふさわしいのに、君は此処には居れない。
「ダリー、明日は雨かい」
「ええ、冷えるわ」
「ならば僕は君を抱きしめたい」
「抱いてはくれないの?」
「分からないんだよ」
「お金をくれなきゃ、やあよ」
「ダリー、そんな事を、言うな」
 僕の声が震えたのを聞いて、ダリーはゆっくりと微笑んだ。シンメトリーな顔が僕のすぐそば、ピントすら合わない場所にくる。
「おかしな人よ」
 ダリーの腕を掴む僕の力は強くなる。けれどダリーはそんな事気にもせず、僕の頬に触れていた手をそのまま後頭部にまわした。
「良い子ね」
 細い、細い君の首筋に僕は沈む。僕は思わず手を離した。そしてダリーは両手で僕を抱き寄せた。
「良い子よ」
 スカルプチュアが僕の頭を撫でる。酷く甘美で、僕の心は震えた。抜けていく力を必死に掻き集めてどうにか立つ。僕の背中には喧騒がある。けどこの路地裏には何もない。ダリー、君はずっとこの路地裏に居るじゃないか。何も無理して進む事無いじゃないか。
 だから外に出ようよダリー! ずっと二人で居ようよ。深夜のこの路地裏でだけではなく、たったそれだけの条件下ではなく、ずっと、ずっとずっとどこでだって。
「ダリー」
 君の名前は僕の悲痛な叫びとなって出る。掠れて震えて酷く間抜けなものだけど。ままならない指先を君の背中にまわした。ダリーは一層優しく僕を撫でた。
 オー、マイ、愛しのダリー、優しくしないでおくれ。僕の震える声に呼応するように仕方がないなんて素振りで愛さないでおくれ。一定の条件がでそろった時のみにあらわれる、そんな君じゃ嫌なんだ。いつだって君と愛し合いたい、そう思っているんだ。
「ダリー!」
 叫んだようで叫べていない僕の声はどこの世界へ溶ける、ダリー、スカルプチュアは硬く、君の指は冷たいよ。