おはようございますこんにちはこんばんはありがとうさようなら。
 ありきたりなご挨拶を並べて、ただ単純に君の声を聞いていたいよ。
 もし愛が最大限の免罪符になるのならば、僕は君を緩やかな羊水につかしてあげたい。






Spider.






 冬の獰猛な木枯らしが地面を巻き上げて乾いた空気に砂や埃を混ぜる。頬を撫でる風の鋭さに身ぶるいを覚えたまま、履きなれたスニーカーは枯れ果てた落ち葉を脆く崩した。乾いた大気に死んだ葉が壊れていく音が無情に響いていく。
 黄色い声を上げながら真横を少年達が通り過ぎて行った。声変わりを知らない高い嬌声が僕の背後に消えていく。マフラー、セーター、ニット帽。寒さをしのぐ柔らかな防寒具がひらりと残像だけ残して去って行った。視線を一瞬だけ移したが、すぐに前に戻し、彼等と距離をあけるように進めば、横に薄汚れたフェンスで囲まれた花壇があらわれた。冬に咲く花はどれも色あせて見える。夏の生命を感じる芽吹きとは違う、ひっそりと健気な命。花壇に埋め込まれた球根や種や苗が、鋭い木枯らしにさらされたまま存在を主張し忘れたかのようにたたずんでいる。風化しているブロックとあいまって、それは酷く退廃的に見えた。
 その花壇を曲がれば綾子は立っていた。
 煉瓦色のコートの前をかっちりと止め、ワインレッドのマフラーに顔をうずめて、まるで今見た花の様に静寂な空気に溶け込んでいる。彼女の周りには鳩が何事も無いかのように首をかくかくと動かしていた。僕は一瞬歩みを止め、絵画のように完成されたその風景を見た。鳩は白くて黒い。地面は乾いて白い。綾子は濃い赤ばかりなのに、彩度が低いから灰色に見えた。動いているのに止まっているかのような、そんな静寂だった。
 僕のスニーカーが落ち葉を踏みつぶした音が響いたのをきっかけに、鳩は一斉に飛び立った。モノクロの鳥が羽ばたく向こうで、綾子が僕に視線を移したのが見えた。丸い大きな垂れ目は、細く長いまつ毛で縁取られたまま、うっすらと涙をたたえて鈍く光る灰色の光を携えている。煉瓦、ワインレッド、薄鈍色。冬の曇天に紛れて、彩度の低い景色に全てがなじんでいる。羽ばたいた鳩の音が静まりかけた頃、僕らの視線は間違いなく交差していた。まだマフラーにうまったままで口元は見えないが、それでも僕からは綾子が良く見えていると思う。白い肌と、赤味の強いショートヘア。小さくて細い綾子の足元にはもう一羽も鳥は居なかった。その場に立つ姿は乾いた地面から浮いているような錯覚を覚えさせる。
 冬は綾子に良く似合う。
「冷えるよ」
 僕の声は不純物の少ない冬の大気を揺らしてどこか鋭く聞こえた。出来る限り優しく出したつもりなのに、おかしい。
 歩みだして綾子のもとへ行けば、マフラーから寒さにためらいもせずに顔の下半分を出して僕を見上げている。細い顎、薄い唇、小さな口。マフラーとの差異が目立つ程に肌が白いのは、寒さの所為だろうか。赤みを帯びないままのまるで雪を思わせる程しっとりときめ細かい肌に浮かぶ灰色の瞳がゆらりと僕をとらえている。そのまま綾子は動かない、喋らない。僕は一歩ずつ彼女との距離を縮めていく。僕の吐く息は白くただようのに、綾子の周りにそれが漂っていない。息をつめたような無表情で、まつ毛すら震わさない。
「寒くないの」
 ポケットに手を突っこんだまま、綾子は大きく僕を見上げている。それぐらいに僕と綾子の距離はもうほぼゼロに等しかった。けれど、現実の距離と本当の距離はどこか違う気がした。
 僕の言葉に反応するようにゆるく口を開いて、そしてまたゆるく息を出して、閉じた。やっと見た綾子の白い息は、彼女自身を僕からくらますように空気に溶けていく。何故かそれが酷く嫌で、僕は薄く息を吐いてその白いもやをかきちらそうとした。けれど僕の吐く息も白くて、綾子の息に混じって、何の意味ももたなかった。一層濃くなることだってなかったけど。
「何してるの」
 甲高い声だった。綾子の声だ。僕はふと世界が動いたような錯覚を抱く。途端に僕は背後に再び鳩が居る事を知った。
「…気休め?」
 小首を傾げてそう言えば綾子は薄く細く息を吐いた。まるであらそうとでも言うように。クルッポー、鳩が鳴く。
 遠くで母親達がわが子を呼ぶ声がする。それにほんの少しの煩わしさを交えながら甲高い声で子供達の返事が聞こえた。何を言っているのか分かる程はっきりとは聞こえないけど、そこには今の景色とは違う何かちょっとした彩度を感じた。僕がぼんやりと視線を遠くに向けていると、綾子がそれにならうように後ろへ視線を投げかけるような仕草をした。甲高い笑い声に、どこか不愉快そうに、本当にかすかに眉をしかめた。ただその仕草すらわずらわしそうに綾子は一瞬だけ目を伏せた後、今一度僕を見た。冬に届く光のように、まっすぐに澄んだ視線だった。僕は綾子の頬へ手を伸ばす。見た目通り、雪の様な肌だ。僕の掌の温度を味わうかのように、静かに綾子は眼を閉じる。長い間ここに立っていたであろう事を物語るその頬は本当になめらかに美しくて、冷たかった。指先から、綾子の芯の冷たさを感じた。ただ綾子は安らかに目を閉じている。
 この生ぬるい僕の温度が君の安穏になればいい。周囲の冷たさとは違う、僕の生が。
「すぐるの手はあったかい」
 ゆるりと、頬よりも更に冷えている指先を僕の手に添える。思わず僕の体すら震えてしまう程冷たい指だった。けれど切り裂くような切なさを伴っている冬の空気とは違う、明らかに生きている人間の指の冷たさだった。
 何故君が長い間ここに立っていたかなんて聞かない。聞かなくても知っているからだ。
 君は、逃げたくても逃げれなかったんだろう。術が分からなくて。どうすれば今より良くなるか分からなくて、君の出来る範囲の事で行えば、終着点はここで、けれど世間は小さかったんだろう。もしかしたらお金なんかなくったってどこにだって行けるかもしれないけれど、確証が無いままじゃ動けなかったんだろう。
 綾子。
 君がほしいものを全て与えたい。こんなに冷えるまで待っていたんだろう。何か君が満たされるものを。そう考えていたら、悲しかったんだろう。ただ君は悲しくてここに立っていたんだろう。綾子、僕は君の安穏になりたい。伏せたまつ毛の長さを、とがる前髪の先を、薄く開いた唇を、そこから漏れる空気を、それらすべてが君が語らない悲しさになるのならばいくらでも、僕は。僕はいくらでも君に与える事が出来る。僕の持ちうる全てを。もし足りないとしても、もしこれが僕のおこがましい夢だとしても、少なくとも僕は満たされる。
「けれどきっと、もっとあったかいものはあるね」
 しゃべる度に綾子のまつ毛が震える。僕は目を開けてほしい。君の鈍い灰色の瞳に出会いたい。赤みの強いショートヘアが、木枯らしに揺れる。静かにマフラーもはためいて、コートもゆるやかに。彩度の無い、色あせた綾子の周り。冬は綾子に良く似合う。何もかもが枯れ果てている、けれど決定的に次の命へ向かって生きているところが。
 遠くでもう一度、母親がわが子を呼ぶ声がした。綾子はきつく目を閉じた。僕は綾子に添える手に力を込める。震えているのは僕の手じゃない。綾子、君だ。
 君の悲しさをこの掌が吸いとればいいのに。
「あやこ」
 声に出して名前を呼べば、どこかチープに聞こえてしまう。君の名前の響きの美しさは誰にも負けないというのに。
 遠くで、もう一度、母親が、わが子を呼ぶ。きっと名前を呼んでいる。綾子は唇をゆがめて更に強く目を閉じた。
「大丈夫。名前を呼んでいるのは僕だよ」
 君の名前を名付けた人が、何故、美しく君の名前を呼べないのか僕は理解できないけど、僕は僕の出来る範囲で君の名前の美しさをたたえながら呼ぶよ。
 だから。
「もうあんなのは、いないんだよ」
 囁いた声は木枯らしにかき消されませんように。まっすぐに綾子に届きますように。そう、まるで綾子が僕に送る視線のように。
「僕しかいないから」
 震えないで綾子。後二カ月もすれば春が来るよ。そうすれば僕らをとりまく環境は変わるだろう。年をとる。学校を卒業する。学校に入学する。けれど綾子、もし君がその二カ月すら待てないというのならば。コートの中で握りしめた硬い凶器、君には見せられない。
 ハニー、マイハニー綾子。
 君をさらう準備が出来たんだ。
 二人きりならばどこまでも行けるだなんて月並みな言葉だって吐けそうさ。この凍え死にそうな冬の中で、ただ涙でぬれた君の灰色の瞳がいつか輝けば良いと思っているよ。
 思い浮かぶのはチープな言葉ばかりで、僕は君を抱きしめたりなんかできないけど、震えないで綾子。世間の広さを教えてあげる。