ヴァニラ
どれだけ長い時間を歩いたのか。 いや、分かっている。実質ただの三時間程度。夜中の三時から太陽が上がるまで。 履き慣れたミュールがアスファルトにぶつかる音だけがする。昨日の夕方の雨の残骸を残したまんまの地面は、上がり始めた赤い朝日を受けて怪しく光った。 やまとは振り返らない。 履き潰したコンバースをアスファルトに舐めさせて歩いている。見えるうなじが、この朝に寒そうで。 かける言葉を忘れたかのように私達は歩く。分かりやすい歩道の横を静かに白い車が通り過ぎた。左手には車道。右手には海。私達は黒いアスファルトの上。 息を吐いても白くは凍らない。けれどどこか肌寒くて、ジャンバーの前をかき集めた。 名前を、呼ぶには。 静かすぎた。 今時の車は音が小さいのだと言う。事実、横を通るまでその存在に気づかない程だ。時折、思い出したかのように横を滑る車を目で追って、何もないこの道の向こうのトンネルに吸い込まれていくのを何度も見た。 朝日は、もう上りきっている。 風は強い。 「あぁ」 風を孕み、シフォンのロングスカートが酷く煽られる。太ももまで露わにする強風が、一層寒さを感じさせた。ため息を吐いてスカートを直せば、いつの間にか振り返っているやまとと目が合った。色素の薄い目が私を捉えるのを、見た。 「ふともも」 「見えた?」 「なまっちろいねぇ」 ふ、と落とすように笑う、その薄い唇の周りは、うっすらと無精ひげが生えている。 振り返ったまま、やまとは私に左手を差し出した。私は小走りで駆け寄って迷うことなく右手を重ねた。やまとは細い。筋張っている。なのに、掌は大きい。私の手が、馬鹿みたいに華奢に見える程に大きい。 薄い唇は笑う。瞳は緩く弧を描く。やまとは左手を握った。手が折れるかと思うぐらい強い力で。そのまま引っ張られて、やまとの数歩後ろだった位置から、一歩後ろの位置へ私は昇格する。 「ははっ」 この海辺の道で、私達は仲良しみたいに手を繋いで、歩く。 さっき車を吸い込んだトンネルが近くなる。もうすぐ私達もそこへ吸い込まれるだろう。この海の煌めきを置いてけぼりにして。 孕んだ風がそのまま太ももを撫ぜて、過ぎる。道行く車にはパンツだって見えるかもしれない。けれどどうだっていいだろう。どうよ、この、なまっちろい足は。 やまと。 名前は声にならなくて過ぎるけど、聞こえているでしょう? 冷えた指先がやまとの熱を感じてやまとが私の熱を感じて、徐々に温くなっていく。私のミュールはアスファルトを叩いて、やまとのコンバースはアスファルトを舐めた。私の足音だけが固い音を奏でている。 そろそろ世の中を太陽が温め始めて、夜中は残骸すら残っていない。残ったのは潮を含んだ風だけだ。 目前の煉瓦細工のトンネルへ、もう一度横を車が通り抜けた。潮の匂いが消えて排気ガスの匂いが鼻をつく。トンネルの向こうが見えるから、このトンネルはそう長く無いのだろう。けれど中は真っ暗で、だから、太陽が私のスカートを握って留めようとする。そんなものに、かまっている暇など、無いのだけど。 夜中三時から始まった散歩は、とうとう此処まで私達を連れてきた。 先にやまとが闇にのまれた。右手はまだ繋がっているのに、視界からやまとが消える。そして闇は、次に私を舐めた。一瞬全てが見えなくなって、しかし徐々に、煉瓦の割れ目に気づく程に慣れていく。 やまとのブリーチした短い髪は、こんなところでもきらきらとしていた。 ミュールの音が大きく反響する。さっきの海辺の静けさとは打って変わった、単調な音が響いている。わんわんと残響を残して、私の足音は響いている。 けれど何故だろう。 名前を呼ぶには、まだ。 やま、まで口を形作って、やめた。諦めて吐くこの息すらもこの雰囲気に有害だと思う。 私のシフォンのスカートはもう大人しくて、規則正しく私の足に沿って動いている。風はもう私の太ももを撫ぜない。 潮の匂いのしない此処で、昨日の雨の水っぽさだけが持ち込まれていて、舞い上がる排気ガスと相まって溶けそうだった。 さっきまではトンネルの入り口を見て歩いていた。けれど今は出口を、まだ続く海辺の道を見て歩いている。闇に慣れた目では、燦々と光る出口がただの白にしか見えない。向こうにまだ海が続いているのは知っているのに、目に見えるのは白。そして暗い煉瓦と、時折舐めるヘッドライト。そして、やまとの頭。 力強い指だけが、今はやたらとはっきりしていて。 出口まで後数メートル。降り注ぐ光は闇を少し侵して、色あせた煉瓦をはっきりと主張させる。ミュールの響く音は徐々に小さくなってきて、本当に、本当にこのトンネルが終わる。 光に足を踏み込む。その直前で、やまとは止まった。 一歩分の隙間をあけたまま、私も倣って止まる。やまとのブリーチした短い金色の髪が、漏れてきた光にあたってきらりと光っている。そのうなじが寒そうだと思ったのは少し前の話。 やまとは振り返った。薄い唇と、切れ長の美しい目が私を捉えた。向き直り、少し口を開きかけて、やめる。そうだった。ここは名前を呼ぶには静かすぎた。同じように私も少し開いて、やめた。そう、静かだった。車が通っても気づかないぐらいに。 頭一つ高いやまとが、私の額に額をくっつけた。色素の薄い目に映る私が見える。やまとは温かかった。しっとりと、そろそろ世界も同じように温まるだろう。此処はまだトンネル。朝日が更に上に上がれば、光は更に浸食するだろう。そうすれば此処はどこ? 夜中三時からの散歩の終着点を見つけれないのに、何故か指先だけがはっきりとしている。そして、馬鹿みたいに静かだ。名前を呼びたいのに、呼ばせてくれない程に静かだ。 「あ」 意味の成さない五十音の最初の一文字だって、まだ有害。後ろの方で形の崩れた私の「あ」が低く響いている。 「ははっ」 やまとが笑えば、その振動が伝わって身体が震えた。さっきの私みたいに声をあげて笑う。その声が、また後ろで形を崩して響いた。広がって散乱したような、そんな音だった。 私の後ろにはトンネルが。やまとの後ろにはまた道が。きっと右手には、海が。 真っ暗の中、愛してもいいかと問うやまとを笑ったあの夜中三時が消えて、私のなまっちろい足はアスファルトを叩いた。海が好きだからとこの街に来たあの日を褒めよう。遠い昔に逃げた私達を褒めよう。そしてまた歩き出した今を。あの時とは違う靴を履いた私達が、今目の前の光と同じで、好き放題にアスファルトを侵している。それが何だかくすぐったくなるほど、喜悦だ。 額に熱を感じるように、きっと此処を抜ければ陽気を感じるのだろう。柔らかさなんて無い右手の痛みが愛しいように、きらめく水面を愛すだろう。 やまとが道の方へ振り返る。額の熱は逃げた。そしてそのまま一歩、光へ進む。同じように私も前へ進み、トンネルを抜ける。やまとの一歩後ろの距離は保たれたまま、光へ身を投じる。真っ白で一瞬何も見えない。けれどやまとの頭は見える。 「ははっ」 声を出して笑えば、やまとも笑ったのが分かった。ブリーチした後頭部が揺れる。太陽を浴びて短い髪が煌めく。 真っ白に光る世界の右手で海が光る、同じように光る君が好きさ。 「あははっ」 この散歩の終着点を探せない様に、いつ君に告げれば良いだろう。名前を呼ぶには静かすぎる世界で、いつ君を愛していると告げれるだろう。 始まりは夜中の三時、終わりはまだ未定。光る水面を愛するよ、だから君も、愛せばいいよ。 BGM:Vanilla/GACKT
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