ディーダ








 冬の空は不純物が少なくて、光を真っ直ぐに届けてくる気がする。唯一知っている星座、オリオン座だって容易く見つけれる。
 手袋の中で指先が感覚を失っている。やわらかくて安い手袋は、外気の寒さを易々とは断ち切ってくれないみたいだ。
 息を吐く。即座にそれが凍る。
 公園のベンチは冷たい。ずっと外に放り出されているから、当たり前と言えば当たり前だ。でも、三十分も座っているのに、一向にあたしの温度で暖かくなる気配は無い。あたし自身も冷たいからだろうか。それとも、あたしが居ようが居まいが変わらないのだろうか。
 カタン、カタンと音をたてて携帯を弄る。画面は変わらない。開いて閉じてを繰り返してるだけだ。
 三十分。
 三十分も、悩んでる。
 携帯の画面は相変わらず、待ち受けのまんま。アドレス帳すら開けていない。そこまですらいけてない。偶には携帯を開く事すら躊躇う。自分の小心者加減にほとほとうんざりだ。きっともう、自転車のサドルも、このベンチと同じぐらい冷たくなってる。帰り道も震えながら帰るのだろう。はたしてそれは、何分後だろうか、何時間後だろうか。
 だって、初めてなんだ。
 友達歴、一年未満。お互いメールが嫌いで、業務連絡以外殆どしない。電話なんて、まったく。
 だから、初めてだった。
 カタン、と反動をつけて携帯が開いた。待ち受けは敬愛するジョニー・デップ。二秒ぐらい躊躇した後、指を斜め右へ向ける。アドレス帳を開いたら、後はもう、簡単だった。指は自然と彼の名前を見つけ出す。電話番号の上で、決定ボタンを押した。
 コール音が耳元で響く。かと思えば、知らない音楽が鳴った。
「…待ち歌なんかしちゃってんの、アイツ」
『――もしもし?』
「わっ」
 思わず呟いた独り言が言い終わらぬうちに、相手が出た。思ったよりも出てくるのが早くて、携帯が滑り落ちそうになった。
『…』
「え、ごめん、ごめん、聞こえた?」
『わっ、とは聞こえたけど、何が?』
「あぁ、じゃあ良いや」
『…何』
「別に?」
『用があるんじゃねーの?』
「あぁ、うん」
 寝てたのかもしれない。それとも、電話だからだろうか。いつもより声が低くて、何となく違う人みたいだ。それでも、彼だと知ってなんだか安心した。もう一度息を吐く。凍って真白になって、静かに溶けて行った。
 久々に喋ると、思ったよりも寒さは自分を蝕んでいて、歯が上手く噛み合わないし、呂律もまわらない。舌が自分のものじゃないみたいに縮こまっていた。最初の言葉すらままならなくて、理由を言おうとしては言葉が上手く出なかった。何度か困っていたら、耳元で彼の呆れたみたいな、心配するみたいな声が聞こえた。
『外に居んの?』
「うん、そうだよ、何で分かるの?」
『歯ァ、ガタガタなってんぞ』
「わぁ、マジで? 聞こえるの? はっずー」
『…まだ帰って無かったのかよ』
「うん」
『部活、そんなに長かったっけ』
「違うよ。三十分前には終わってたよ」
『じゃあ、何で』
「ディーダ、が」
『あ?』
 あぁ、歯が鳴って上手く喋れない。ふぅと長く息を吐いて、一度落ち着いた。震えも多少おさまった気がする。また震えが来る前に、そのままの勢いで口に出した。
「ディーダが、元気かな、て」
 アハハと軽く笑いながら――上手く笑えていたかは知らないが――言うと、ディーダはぴたりと言葉を止めた。あたしはまだ、自分の寒さをコントロール出来ずに居る。動いた方が寒かった。何だか。
 必死に手のひらでそこら中こすっても変わらない。三十分間の冷えが今更馬鹿みたいに襲ってきた。もう何に触れても分からない。じんじんと痛い。
『…何それ』
 小さく、けれど確実に呆れた声で、ディーダが呟いた。初めての電話だったから、急用だとでも思ったのかもしれない。はぁ、と長いあからさまな溜息が電話越しに聞こえてきた。何だか溜息を吐く姿を容易に想像出来てしまって、あたしは思わず噴き出して笑った。
「そのまんまだよ。クラス替わって、喋んないんだもん。近況が気になってさ」
『……』
「何で黙んの?」
『ディーダ、って、呼ぶの、やめろ』
「えぇ、良いじゃん、今更じゃん」
『もうお前しか呼んでねーよ』
 ――だからじゃないか。
 あたししか呼んでないから、わざわざ使ってるのに。ディーダ。ねぇディーダ。

 ディーダ。

「ディーダ」
『言った傍から』
「あたし、死ぬ前にね」
『…うん』
「誰か一人だけ、喋って良いよって言われたら」
『うん』
「ディーダと喋る」
 寒い。体が、ガタガタ音を立てて震える。
 それでも、ディーダ、あんたの名前を呼ぶのだけはアホみたいに明瞭でしょ。濁音のくせに、やけにはっきりでしょ。
 ディーダは何も言わなかった。ディーダは普段からリアクションの少ない奴だから、気にもしない。ただ、冬があたしの体の中に染み込んでくる。星の光があたしを貫く。いっそ一生このままで良かった。このちっちゃな携帯越しに、ディーダと繋がっているのなら。
 夜の公園は静かだ。通りに車が通る音だけ、エンジンと排気ガスの音だけがする。
 暫くして、ディーダが静かに口を開いた。
『…それってさァ』
「うん」
『今、そういう事かよ』
「あぁ、それは違うよ。全然違う。全然そんな気分じゃない」
『そっか』
「心配した?」
『…ぶっちゃけな』
「ありがとう。…ねぇ、あたしが死んだら、どうする? あぁ、本当にそんな気分じゃないから、そういう質問じゃないから」
『分かったよ。…死んだら? 泣くだろうな』
「泣いてくれるの?」
『泣くよ。泣かない訳無ェだろ』
 もし、あたしが死んだら。
 その葬式を上から見て、ディーダが泣いているのか確認してから逝きたい。あぁ、でも、こう言っといて、ディーダは泣かない気がする。びっくりして、そのままずっとびっくりしてて、あたしの死に顔を見て、やっと死んだって理解して、それで、とても困った顔をしそうだ。ディーダは口こそ悪いけど、そういう人だから。優しいような、気が小さいような、そんな人だから。
 友達歴一年未満。親友じゃない。彼氏じゃない。
 でも、何故か、一生一緒に居たいと思った。
「追いかけてきちゃ駄目だよ」
『それは無いカナー』
「ひど」
『……お前こそ』
「うん?」
『追いかけてくんなよ。俺が死んでも』
「…でも、悲しくて死んじゃうかもよ」
『うさぎか』
「そんなに可愛いもんではないし」
『確かに』
「あはは」
 笑って、乾いて。空気は澄んで、痛い。
 考えたくもない。ディーダが死ぬなんて。うさぎなんて可愛いレベルじゃなく、本当に悶絶死してしまいそうだ。
 でも、実際になったら、あたしはきっと、ただただ驚いて、ずっと受け止められなくて、お葬式になっても愕然としてるんじゃないかなぁ。ディーダと変わらないかもね。
 うふふ、とあたしは笑った。何だか切なくて悲しかったからだ。うふふとかあははとか混ぜつつ、何がおもしろいのか、笑っていた。

『ズー』

 ディーダがあたしの笑い声を遮るみたいに言葉を発した。あたしはぴたりと笑い声を止めた。そして、何回も何回も、今の声を反芻した。
『凍死すんなよ』
 優しい声だった。ディーダの、心配してくれている声だった。耳の奥がくすぐったくなるような、そんな気持ちになった。
「…久々にズーって呼ばれた」
『あぁ、俺も久々にディーダって呼ばれたよ』
「もう誰も、あたしをズーって呼ばないよ」
『俺もだよ、って、さっき言ったか』
「…ディーダ」
『何』
「ぶっちゃけるけどさ」
『うん』
「あたし、ほんとは、ディーダって呼びたくて、電話したの」
『うん』
「そんで、ズーって、呼ばれたかったの」
『うん』
「…ごめん」
『何で謝んだよ』
「だって、意味分かんないでしょ」
『まぁなァ』
 ディーダは笑いを含んだにやにやした声で言うと、でもな、と言葉をつづけた。
『ズー』
「うん」
『何度でも呼んでやるから、安心しろ』
「…ディーダ」
『おう』
「ディーダ、ディーダ、ディーダディーダ」
『ズー、ズーズーズーズー』
「あぁ、もう、馬鹿みたい」
『馬鹿なんだろ−よ』
「…ありがとう」
『うん』
「寒いよ」
『帰れ、ばーか』
「帰るよ、ばーか」
『……』
「ごめん、ありがとう、付き合ってくれて」
『…した』
「え?」
 電話の奥で小さな声。不明瞭なディーダの声。聞き返して思いきり携帯を耳に押し付けた。聞き返して暫くしても、ディーダは何だか何も言わなくて、でも、催促するのも何か違う気がして。待った。体はどんどん熱を奪われて行くけど、苦じゃなかった。
『ズー』
「はい」
 仕切りなおすみたいにディーダがあたしの名前を呼んだ。何となくくすぐったくて、馬鹿みたいに改まって返事をすると、優しいディーダの気配が流れた。
『また明日』
「…うん」
 クラスが替わって殆ど喋らなくなった。だから、明日、また学校で今みたいに喋れるか分からない。
 でも、前よりは全然マシだと思った。
「うん、うん、また、明日ね」
『じゃあな』
「ばいばい、おやすみ」
『おやすみ』
 指が震えて、上手く電源ボタンを押せなかった。通話時間三十分。そんなに話してたか、とも思うし、そんだけしか話して無かったんだとも思う。言いたい事は言えたんだろうか。でも隠した事が多かったのは、そう、その通りだ。
 ベンチから立ち上がって、鞄を持って自転車にまたがった。サドルはきんきんに冷えていて、座った瞬間にぞわっとしたけど、仕方がなかった。体がガチガチだけど、あたしは懸命にペダルを漕ぎだす。ここから家は、もう十五分もかからない。体が温まる暇も無く家に着くだろう。は、と短く吐いた息は、やっぱり凍った。
 寂しい、って。
 言えば良かったのだろうか。
 ただ、名前を呼びたくて。ただ、名前を呼ばれたくて。ただ、泣きそうで、ただ、話したくて、声が欲しくて声をあげたくて、あたしの事を一秒でも良い、考えて欲しく、て。
 ねぇディーダ。これが恋じゃないって誰が言えるだろう。でも、ディーダ。あたしはこれを恋にしたくは無いよ。だって分かんないんだもん。
 ディーダ。ディーダの前で泣けたら、きっとあたしはディーダに恋をしてしまってる証拠だと思うけど、あたしはまだ、あんたの前では泣けないかな。まだ恥とかプライドとかがくっついて、いっそそんなの全部捨てて抱きついてしまいたいって思うけど、そうすると恋になってしまいそうだとも思うよ。そうやって選別してる時点で、あたし達って危ういと思うけど、でも、何か、「男女」って言葉じゃないと思ってる、あたし達って。男の子はどうか良く分からないけど、欲情の無い恋があるのだとしたらそうなのかもしれない。もう分からない。どう名前をつければいいの。でも、でも、絶対に、恋ではないと、そう思う。いや、恋であって欲しくない。
 ディーダ。あんたの特別になりたい。あんたがあたしの特別だから。あたしがディーダを好きなのと同じぐらいディーダがあたしを好きで居て欲しい。いつか誰かを好きになっても、別のところであたしをずっと好きで居て欲しい。ディーダ。好きだよ。好きだ。だからディーダ、好きで居て。ズーって呼んで。二人だけの秘密みたいにあだ名で遊んで。

 あたしが死んだら、寂しいって泣いてくれる? お願いよ、ディーダ。