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 神様は等しく平等。
 本当に?









You can see me.









 マヤカは、手つきだけ静かに猫を落とした。猫は空中で静かに一回転、頭から落とした筈なのに、見事に脚から着地。音すら出さないその優美さに、しばし目を取られるのは、俺だけだったようで。すぐに聞こえた、苛立った、唸りとも舌打ちともつかない吐息が、それを教えてくれる。
 窓から見える外は静かだ。雪だって降っていない。

 その衝動に理由は無い、とマヤカは昔、言った。
「シュウは無いの? そういうの」
 世界が理不尽に思える、平凡で繰り返すだけの毎日に嫌気がさす、世界が、自分を操っている様に思う。
 つまり、マヤカは、どうにもならない日々が嫌いなのだ。寝る事は今日のハジマリ。
 それでも毎日私は老いるんだって、と何でも無いかの様に言って、ぷすり、とフォークで林檎を刺して口に運んだ。もう片方の頬杖を退ければ、もう少し簡単に食べれるのに、と俺は思う。それでも器用にマヤカは林檎を食べる。そして俺は思った。何でも無いんじゃなくて、諦めてるんだ、って。マヤカは、そう、抗うのに、疲れてる。
 マヤカの口の端からだらりと林檎の果汁が漏れる。涎よりも粘着性のないソレは、さらさらとマヤカのあごを伝って、静かにテーブルの上に落ちた。うすきいろい果汁は染みをつくる。マヤカは気にしない。そんな事起こってませんみたいな顔で、しゃくしゃくと林檎を食べる。ぽたぽた、と、続いて数滴落ちた。円が何個も連なっていくのを、俺は唯ぼんやりと見つめている。
 俺が返事をしようがしまいが、マヤカは林檎を租借するんだろう。だから俺は返事をしない。マヤカの衝動の意味がわかっても、それを止める手立てを知らないから。
 何で人間は他人の心を覗けないんだろう。
 覗ければ、俺はもう少しマヤカを理解出来たかもしれないのに。
 意味が分かるのと理解をするのは、まったくもって別だった。本質なんて雲の中で、何も、分からない。
 黙って考え込んでいたら、マヤカがじっとこっちを見ていた。林檎はもう食べ終わってる。果汁でべたべたになった顎が、光を受けてうっすらと光った。微笑まないで怠慢のまま、マヤカを見返すと、マヤカはフォークを持ったままの手で俺の頬をなでた。
「…シュウ、ごめんね?」
 その頬は少しべたべたとして、果汁がついたんだ、って思った。だから、濡れたんだ、って。
 マヤカが謝った意味が分かった、でも、理解は出来なかった。

 手当たり次第に食器を落とす。二人で選んだ思い出も、すぐに破片になった。鋭利なそれがとんがって、俺とマヤカの足の裏を傷つける。既に血みどろになったマヤカの足は、それでも、怯む事なんて無くて、部屋の中を暴れる。マヤカは咆哮も罵声もあげない。唇を噛んで声を押し殺していた。ぎゅ、って、何かに耐えるみたいに。
 俺は入り口で、どうしようかな、と考えていた。進めば更に足の裏を切るだろう。既についた傷口が脈とともにズキズキと痛んだ。もう一個、心臓が出来たみたい。血は多分、そんなに流れていない。でも痛いのにかわりは無かった。熱を持つ。きっと明日、腫れるんだろうな。
 ぼんやりと辺りを見渡す。スリッパを見つけたので、血がちょっと滴る足に無理やりそれを収めて、破片だらけの部屋を突っ切った。マヤカは音にならない声でウーウーと唸りながら、俺になんか気づかないみたいな素振りで何もかもを壊してる。指先に触れたらもうアウト。それはマヤカの獲物に変わる。テーブルの上の灰皿が標的になる。俺の足元でそれは粉々になった。
「マヤカ」
 名前を呼んでも、止まらなかった。炊飯器を持ち上げて、思い切り下に打ち付ける。炊飯器の蓋ががこん、って開いて、床はへこんだ。唇を噛んでウーウーと唸って、マヤカは肩で息をする。暫くそうやって息を整えた後、次の獲物目掛けて、顔をキョロキョロとさせる。肩甲骨まである髪が、残像みたいにマヤカを縁取った。髪が元の位置に戻る前に、何かをつかもうと、マヤカは思い切り手を振りかぶった。
「マヤカ、止めるんだ」
 その瞬間、俺はマヤカの手首をつかむ。マヤカの動きがそこでガチリと止まった。舞っていた髪の毛がはらりと落ちて、マヤカの背中に垂れる。それでも、マヤカは俺を見ない。前を見据えたまま、ウーウーと唸って耐えている。その肩も、手首も、顔も震えている。表情は見えないけど、きっと、泣きそうなんだろう。
 マヤカの衝動の意味は分かってる。でも。
「止めるんだ」
 静かに、やんわりとそう言う。
 マヤカは震えている。ぐっと唇を噛んでウーウーと唸って震えている。その唸り声に涙が混ざっていく。でも、俺は、こぼれない涙を愛せるほど、強くなんか、無い。
 緩く抱きしめた。赤ん坊にするみたいに、軽く肩を叩いてあやす。マヤカは噛み切れた唇を指で拭って、荒すぎる息を必死に整えようとしていた。そんなマヤカを見て、何だか不思議な光景に思えて、マヤカが一人みたいで、俺は、少し切なくなった。どうすればマヤカを、ちゃんと、分かってあげれるのか、それだけを考えた。世界の終わりみたいな惨劇の中、二人きりみたいな錯覚を覚えても、マヤカはマヤカで、俺は俺だった。
 マヤカの涙がこぼれるのと、俺の涙がこぼれるのは、どちらの方が早かったんだろう。抱きしめる腕の震えが強かったのはどっちなんだろう。

 日に日にマヤカの衝動は強くなっていって、俺はこの前破壊された机を思う。椅子で思い切りたたいたから、結局両方とも壊れてしまった。片付けは二人でやった。マヤカは何も言わなかった。謝罪も、冗談も無かった。何か思いつめたみたいに、じっとした目で破片を見つめていた。そして、一日たてば、マヤカはいつものマヤカに戻る。
 でも、それが本当のマヤカかどうかなんて、誰も知らない。マヤカだって、きっと知らないんだ。
 だから、探している。何がなんて分からないけど、きっと、探しているんだろう。
 どれだけ落としても落としても、猫はとても優雅に着地する。マヤカは苛立って意地になって繰り返す。逃げようとする猫を捕まえて落とす。猫が暴れてマヤカの腕にたくさんの引っかき傷を作っていた。でも、その傷と同じぐらいの量の猫の毛が、フローリングにたくさん落ちていた。
 蹴り殺したり、縊り殺したり、そんな方法をとらないのは、きっと、本当に殺す気が無いからだ。
 抑えきれない衝動に苛立つマヤカが、この窓の外みたいな灰色の世界に重なった。何もかも漠然としていて、無味に彩られるその世界が、ちっぽけで切なくて、虚しかった。この世界はマヤカと同じだ。雪だってつもらない。だから、きっかけだって、何も無い。
 俺はマヤカが救われる方法は知らない。だってそれはマヤカだけしか知らないんだ。だけど、俺は思う。俺に助けを求めたら、いつでも抱きしめてあげるのに。
 飽きる事の無い動作で猫を落とす。そのたびに一声鳴いて着地する猫も段々疲れて、弱弱しく立ち上がった。その動作にマヤカは舌打ちをした。ゼェゼェと上がる息を抑えようとすらせずに、マヤカは息を吐いた。息を吐いて吸って、吐いて吸って、吐いて吸って、吐いて吸って。
 マヤカも猫も、生きている。この広い世界で、二酸化炭素の濃度をほんの少しあげながら、俺達は、呼吸をしている。
 当たり前の様で尊いそれが、何でこんなにも切ないのか、分かる訳、無かった。

 ザーザーと流れる水を止める。キュ、と蛇口を捻る音が浴室に響く。狭い浴槽で一人、猫みたいにくるまっているマヤカは、うっすらと漂う水を、焦点の合わない目で見つめていた。俺は上からぼんやりとマヤカを見つめる。マヤカの伸びきった長い髪が水の上に散乱して、乱れて、糸の様に複雑に絡まっている。器用に折りたたまれた細い手足に寄り添うみたいなその髪がどこか扇情的で、病のようなマヤカを彩った。
「…何回目だっけ」
 俺がそう言うと、水がぱちゃんとはねた。マヤカが首を振ったみたい。
「数えて、無い」
「多分、三回目だなぁ」
「そうなの?」
「そうだね」
「…そうなの」
 マヤカはそれっきり、黙り込んだ。目を見開いて、そこに水がしっとりとあたって、痛くないのかな、って思う。何でも無いんじゃなくて、諦めているマヤカ。狭い浴槽はまるで海の様だった。遍く命の源。マヤカ、君は、そこに帰りたいのだろうか。なんて、こんなの、俺の憶測に過ぎない。
「マヤカは、溺死が良いの?」
 なんとなく質問してみる。でも、本当は、そんな事、どうでも良いんだ。
 どうでも。
「…もう猫は殺さない?」
「うん。やめる」
「そっか」
「…ねぇ、シュウ。私、死にたく、無いよ」
「知ってるよ」
 さっきのは、意地悪。そう呟くと、マヤカが水の中で微かに微笑んだ気がした。
「もう猫は、殺さないわ」
 静かに呟く。声が水を震わせて波紋をつくった。髪も同じ間隔で揺れて、一瞬、時間がぶれた気がしたけど、気がしただけだ。
「…私も、死なないから」
「うん」
「…シュウ」
「ん」
「猫ってね」
「うん」
「生まれた時に目を縫うと」
「うん」
「大人になって糸を抜いても、世界が見えないんだって」
 ぴちゃん、と水が落ちて、はねる。マヤカの意思をもった長い髪は揺れた。浴槽の傍に置いていた花瓶から、一片、花弁が落ちる。マヤカの好きな、名前も無い赤い花。マヤカは気づいてくれていただろうか。水辺の自殺ごっこの度に、気にしてくれていただろうか。
「シュウはさ、」
「…うん」
「何で、生まれた時に私の目を縫ってくれなかったの?」
「…」
 マヤカの言葉に涙は混ざっていない。それでも、はねた水が目尻を伝うから、泣いている様に見えた。花弁がゆらゆら舞って、マヤカの頬についた。人よりは少し白めの肌に、赤い花弁がぺとりと寄り添う。
「ねぇ、何で?」
「…」
「ねぇ…」
「マヤカがね」
 その頬についた花弁をとる。瑞々しくて、冷たかった。当たり前だ。昨日変えたばかりだ。マヤカはゆっくりと視線を俺に向けた。俺は微笑む。マヤカ。マヤカ、君が何を考えているかを、俺は知らない。マヤカ、この自殺ごっこ意図だって、何も分からない。いつも破壊する、あの衝動だって、理解なんか出来なかったよ。けれど、マヤカ、君が納得するのなら、君が満足するのなら、俺は何もしない。マヤカ、俺は、俺は君だけの為に、名前も知らない花を活けるよ。いつか満足するまで、マヤカ、君が納得するまで。
「俺を見る事が出来る様にだよ」
 マヤカ、マヤカ。これを愛とは俺は言えない。だって、そんなの、分からないからだ。愛とかそういうものの定義なんて、どこにもないじゃないか。でも、マヤカ、俺はきっと、君の為に居る。だから、マヤカ、君も俺の為みたいなフリして、笑って。
「俺を、見る為だよ」
 マヤカが林檎を租借した、あの時の様に俺の頬に手を伸ばす。濡れた手は前みたいにベタベタなんかしてなくて、透き通っているみたいだった。付着した水がゆるりと垂れて、まるでマヤカの腕を舐めるみたいに落ちる。俺の頬に触れるこの手は、こんなにも細かっただろうか。こんなにも小さかっただろうか。
「シュウ」
 この声は久々だな、って、そう思った。最後に聞いたのはいつだろう。マヤカが、何かを諦める前だったか。
「ごめん、ね」
 心細いみたいに震えて、涙も混じったみたいなこえで、求めるみたいなこえで、マヤカは呟いた。マヤカの腕を、水が、舐めるみたいに落ちて、きっとそれは、蛇口から出された水だけじゃなくて、俺の涙も混じっているんだと思う。俺は笑う。マヤカが其処に居る。それだけで、十分じゃないか、だって、そうじゃないか。
 マヤカは少し眠そうな顔で笑った。指先が徐々に離れて、また水に落ちた。水ははねてぴちゃんと高い音を出す。その衝撃でもう一片、花弁が落ちた。マヤカはそれに視線を向けて、また、微笑んだ。
「シュウ、次は、どんな花に、してくれるの?」
「…どうしよ、っかな」
 ふふ、と小さく笑えば、浴室が震えたみたいな気がした。
「次は、白にしようかなぁ」
 マヤカは何色でも似合うから、迷うね、そう呟けば、マヤカは目尻にたまった涙を跳ね除けるみたいに、大きく笑った。

 マヤカ、君は君だけのものだ。マヤカ、けれど、世界は、けして君だけのものじゃない。どれもこれも独立していて、マヤカ、君にあるのは、君だけなんだよ。
 けれど寂しい君には俺をあげよう。マヤカ、マヤカ、君だけのマヤカ。
 それでも足りなくて、それでも切なくて、理不尽さに涙をするのなら、浴室でお泣き。涙は海に溶けて、分からなく、なるから。