夏の日差しの向こう側。
 太陽に透ける君がいた。


海 に 行 こ う と 、 君 が 言 う か ら 。



 その日は、猛暑とゆうほどでもなくて、それだけがあたしを苛々させよる。暑いならもっと暑くなりゃえぇんよ。あたしは犬みたいに唸って足を外へほった。畳はちくちくすぅし、仰ぐ団扇は何の意味ももたへんし。扇風機とクーラーは少し前に壊れた。そんな現実なんて本気でいらんと思う。その所為で頬を伝って流れ落ちる汗が鬱陶しい。畳に地味に染みてく。あたしは静かにため息を吐いた。
「よー、元気に死んどぉ?」
 頬に当たる温い風とともに聞こえたんは、さらにダルそうな声。体を起こしてそっちを見れば、見慣れた中性的な顔が眼に入る。あたしは乱れた服装を整えながらしっかり起き上がって、何度目かわからんため息を吐いた。
「死んどるよ、元気やないけど」
「元気だしぃやぁ。暑さにもめげないめぐちゃんが好きやってんで?」
 過去形? と聞けば御門 明日香(みかど あすか)は笑(わろ)た。あたしは疲れたように笑うと、窓辺の御門に近づいた。御門はそんなあたしに餌付けをするようにアイスを差し出した。ガリガリ君ソーダ味。嫌いやない。あたしはそれにかじりついて、御門はそれを見て笑た。
「めぐン家扇風機とかないん?」
 あたしを優しく見下ろすように御門がゆう。あたしは眉をひそめた。
「壊れてんて」
「あぁ、それで。団扇転がっとる。しまいぃやだらしない」
「うっさいわ、なぁ、あおいでや」
 あたしは腕を伸ばして団扇を拾(ひろ)て御門に突きつける。御門はしゃあないなぁとでも言うようにそれを受け取って、パタパタとあたしをあおいでくれた。久しぶりの冷気のはずが、意外と生ぬるぅて正直嫌んなった。あたしが団扇から顔をそらすと、御門は吹いた。御門は知ってたんよ、きっと。あおげば生ぬるくて苛々するって事。あたしは御門を睨んだ。
 ひとしきり声あげて笑た後、御門はにやりと口角をあげた。
「お前暑苦しいわ。見てておもろい。このいらちめ」
「暑苦しいのがおもろいってどないやねん」
 あたしは苦笑を返すと御門に近づいた。
「で、何やの? 何か用事あって来たんとちゃうん? まさかガリガリ君渡しに来たってわけちゃうやろ?」
「ん、せやせや。オサソイに来たんや」
「お誘い?」
 あたしが首をかしげて言う。そんなあたしにお構いなしに、御門は汗まみれの手首を掴むと、にっこりと笑う。
「海、行こ」

「みーかーどっ! 風強いって、マジで! この強さはありえん!」
「わー、うちはじめてやー。向かい風でチャリすすまんのー」
「悠長にそんなんゆうてる場合やない!」
 学校を右に曲がればセブンイレブンがあって、その道をまっすぐ進むと川がある。そこから川沿いにチャリをこいでいくと海につくらしい。御門はそう説明してあたしの腕を掴んだ。あたしのチャリ鍵がどこにあるかは知っとるからそれを拾って、御門は勝手に鍵を突き刺した。わけがわからん間にあたしは御門の後ろをチャリでついてく事になった。空は抜けるように広い、太陽はナサケナイほどに突き刺してくる。せやけど、急に風力が増した事によって、空の蒼さも日差しもきにならんくなる。うだるような暑さは湿り気をおびた風により、徐々にぬるく冷たくなってく。御門は何かが吹っ切れたように爆笑しっぱなしだし、もうあたしだって何がおもろいんかわからんまま笑うてる。道路から下におりて、ランニングロードに出る。凄い綺麗やった。川面が太陽を受けて、ものごっつキラキラ光っとるし、白い鳥が優雅に飛んどる。
「あ。めぐ。見ぃ」
 御門が声をあげた。御門の視線を辿ると、甲子園に何度も出とるH学園が見えた。『祝!男子篭球全国優勝』と書かれた垂れ幕がかかっとる。御門はえぇなぁ青春やぁと呟くと後ろを向いて笑う。
「んげぇね。うちも何か全国に出てみたい」
「御門は何に出たいん?」
 必死にチャリをこいで御門の横に追いついた。一気にあおられるような突風が吹いてからだのバランスを失う。御門はきゃぁと言いながら笑って言った。
「何でもえぇよ。いや、ほんまは何にも出たぁないんかもしれへん」
「何やのそれ。今自分で出たいゆうたんちゃうの」
「せやねんけどー。何? わからん? 全国の空気を吸いたいねん」
 そう言った御門の横顔は太陽を受けてまぶしかった。あたしは何だかばつが悪くて目をそらしてしまった。御門はそんなあたしに構うことなく、笑顔でぐんぐんとチャリをこいでいく。待てやと呼びかけるのもダルくなり、ようやく直射日光の暑さを感じてきた。あたしは御門を追いかけるように思い切りペダルを踏み込んだ。御門はゲラゲラと笑いながら立ちこぎをしはじめる。負けじとあたしも立ちこぎ。せやけど、広がった面積に思い切り風を受けて二人でこけた。
 あいてーなどと言いながら起き上がると、ちょうど起き上がった御門と眼が合った。澄んだ湖のような深いその目に一瞬とらわれる。砂まみれのサンダルはどこかへ飛んでった。風が生ぬるい。御門から眼を離すことが出来んくて、それで、御門も眼をはなそうとせんかった。真顔で恐ろしいほどに見つめてくる。一つ漏れた吐息が、お互いの顔にかかる。あたしは思わず――まばたきをするのも忘れた。
 たぶん、それに気づいた御門がぶふっと激しく噴出した。それでやっと呪縛がとけたかのように、あたしも思わず噴出した。
「もーありえーん! バリ痛い! 痛す!」
「痛すって何やねんな、もー! てか御門がマジこぎしだすからやで?」
「えー、うちの所為?」
 他愛の無い会話の奥であたしの胸が高鳴った。
 今見た御門は死ぬほど綺麗やった。それだけがあたしにとっての恐怖になった。
 二人でおこしあって、またチャリをこぎ出した。そしてしばらくすると道が悪なる。ガタガタとゆれるチャリがバランスをとりづらい。だんだん匂いも海の匂いになってくる。けどそれを異臭と感じるのは、慣れてないからやろか。そんなんは分からんまま、あまり壮大ではない景色を眺めた。最初の方の美しさはどっかへとんでったみたいやった。
「…なんかさー」
 御門が急に呟いた。
「冷凍ドリアの匂いせん?」
「えぇ? 海やろ、これ。……たぶん…」
「んー。ほんま粉チーズの匂い。海やないなぁ、これは」
 前よりも臭なってーと御門は言う。確かに、御門に言われてからは冷凍ドリアな匂いな気がせんでもない。それに気づいた途端、なんとなく気分が萎えて、悔しぃて御門を追い抜かした。後ろから御門の絶叫が聞こえる。しらへんし、もう。あたしが先に海につくから。
 橋のようなものを超えた瞬間、そこで道は終わっていた。
「…う、み?」
「おー、海ー」
 後ろから追いついた御門がそうゆう。そこにあったのはロマンチックなモノなんかじゃなく、普通に川と変わらない臭い水だった。大きなテトラポット、苔に覆われた岩。想像上の海よりはほどとおい。
 匂いは海なんかじゃなくて、冷凍ドリアだった。
「何なん!? せっかくここまでこいできたのにこれ何なん!? わ、マジありえん! きちゃない!」
 あたしは耐え切れずにそう喚くと、御門は笑いながら腰掛けた。
「何やの、めぐはもっとロマンティックなモンでも想像しとった?」
「白い砂浜かと思ってたわ」
 ぶーたれてそう呟くと、御門はえぇやんと笑った。ぱちゃぱちゃと頼りなくさざめく波を見つめながら、御門は岩場におりる。苔で覆われたその岩はすぐに滑りそうや。危ないと声をかける前に、御門はいけるトコロまで走ってった。軽快なリズム。こけてまう。このままやと。海に。ガラスやって落ちてんのや。危ない。
 脳内でぐるんぐるんと言葉がめぐる、せやけど声にはならんかった。あたしは一人、呆然と臭い風を受けてたっとった。御門が振り返る。波風にゆらめいて細い髪がたなびいた。細い髪の向こうで、切れ長の湖が覗く。奥の方で水面が光を受けてキラキラと光っとる。
「めぐー。来(こ)えへんの?」
「…行きたない。すべる。危ない」
 泣きそうな声で搾り出したあたしに、御門は笑いかけた。
「大丈夫やよ、ほらー」
 こっち来(き)いや。御門は危なげに笑うと、手をさし伸ばした。少し遠い。御門のトコロまで歩かなあかん距離やった。
 その手を掴んでどこまでいけたらえぇやろ。
 一瞬頭をよぎるそんな言葉はよそにして、体は御門の方へむかなかった。いやいやをするようにその場に座る。行けばもう戻れへん気がした。そのまま、流れるように御門のところへいってまうと。どっから? わからへん。わからへんよ、そんなん。ただ、もう戻れへん気がしただけ。
 来えへんのー? ともう一度御門が言うたら、あたしは今度こそ頷いた。御門は泣いた様に笑うと、少し遠くへ行った。なんだか不安になる。御門、もう戻れへんくなってんの? そしたら、迎えに行った方がえぇの?
「めぐー!」
 御門が遠くで叫んだ。あたしは慌てて立ち上がると、大声で返事を返す。
「何ー!?」
「あんなー、うちなぁ!」
 御門がさらに大声で叫んだ。そしてもう一度泣いた様に笑う。そして次はそっと呟いた。
 御門の声はあたしのトコロまで届かへん。
「御門、聞こえへん!」
「じゃあ、聞かんでえぇ!」
 御門はそう叫ぶと戻ってくる。あたしは泣きたぁなった。何でやの。教えてくれへんの? 聞いたらあたしがそっちに行くから? そんな、心配、えぇよ。何言ったかなんて、想像ついてるよ。
 よいしょと呟いて御門は上ってくると、にっこりと笑った。
「海、綺麗やろ?」
「…綺麗やないよ」
 あたしは笑うことも出来(け)へんかった。搾り出すようにそう言う。御門が悲しげに笑う。
「海、汚いよ、御門」
「ん」
 あたしの言葉にそう返事する御門は穏やかや。あたしは無理やりに笑てもう一度言うた。
「海、汚いよ」
「んー。綺麗やよ」
 御門は頷いた。
「綺麗やよ」
 そういう御門の眼は静か。あたしより背の高い御門は、あたしを見下ろすようにそう言う。視線はあたしを絡めて離さなかった。あたしもまた、離せない。そして御門は泣く様に笑うと、のびしてチャリにのった。あたしは御門を振り返る。御門はいつもと変わらんかった。ひょうひょうとした顔でチャリをセットする。
「じゃーかえろーか。帰り道に明日香お姉ちゃんがおごったるっ」
「当たり前や。こんなトコつれてきて何もせんかったら、あたし、怒るで」
 あたしも頑張って言葉を紡いだ。そしてチャリにまたがる。
 二人でこぎだした。頭上を白い鳥が舞う。名前は知らん。きっと御門も知らん。けどそれでえぇと思た。二人を包む冷凍ドリアの匂いが変わらなければえぇとも思う。御門がいる。それだけが嬉しかった。

 御門。やっぱり海は汚かったよ。
 せやけどお前は死ぬほど綺麗やったよ。
 泣きたいほどに、綺麗やったよ。